昭和四十三年二月二十八日 朝の御理解
田主丸の高芝さんの奥さんが、御祈念の後に参ってこられて、色々とお届けがございました。心の中のもやもやもありゃあ、まあ言うなら、ぐち、不足の事をお取り次ぎ願われ、お取り次ぎを願うという事は、やはりきれい事ばかりじゃあいけない。やはり、あの、願われなければいけない。そうして朝の御理解を頂かれる。朝の御理解頂き終わってから、二度目にここに出てみえる時には、もう表情がもうまるきり変わっておられる。「先生、さっきお届けしたことは、もう、お届けすることいらない。」という意味のことなんです。「先生、今朝の御理解はもう本当、私一人の為の御理解の様な御理解でした。」というて、もう本当に、生き生きとして帰られた。私は今年、こりゃあもう一年に【 】ないでしょうけれども、年末年頭に頂いとります、いよいよ大きく、いよいよ豊かに。そのいいよは、大きなほうが、神様の方ですからね。神様が私共に思いをかけて下さる。いよいよ大きなおかげ下さろうとそておられるのでございますから、私共は、いよいよ豊かになる事に、努めさせて頂こうと。こりゃあもう、日々その事心にかけておりますけれども、厳密に言うと、あ-本当に自分の心の貧しさを、それこそむぎだしにだしておる様な事柄が沢山あるのでございます。ここにうけさせて頂いとりましても【 】
そこで私は思うのです。
今日は、いよいよそこんところを厳密にです、厳密に言うても一日を終わらせて頂いた後に、今日こそ豊かな心で過させて頂いたと、そこにいよいよ焦点を置いて頂きたいと言う事を思います。
そこでですね、豊かになりたいと思うただけだは、もう、【 】それだけではいけんやろね。前に申し上げた様に【 】解らなければいけません。たかしらさんの奥さんが、昨日ここへ出てきた時までは、様々な家庭の問題、お店の問題、ね。それが自分の思う様にならんと、もうそれが、やはりぐち、不足にでてくる。
そして自分だけだはない、それが主人にまで、子供にまでその「ああしてくれるといいのに。こうしてくれるといいのに。」と言う様な事にまでなりかねない。ところが昨日の御理解、ね。
昨日の御理解頂かしていきよるうちに、もう、【 】出てくる時には、もう、全然その、まあ、心の状態というものが、全然違ってしまった。
ですから、表情もまた、変わってくる事は勿論です。「もう先生、今日の御理解は、私が一人で頂きよるくらいでした。」ね。子を願わんならん。子供さんが何々、という事すらがなくなってしまう。ここに信心が解らなければならんというと言う事がありますね。第一。わからにゃあいけません。
昨日築水連合会の信徒共励会が甘木の教会でございました。皆さんここへ帰ってみえて、色々お話をなさる中に、神様の御都合と信じさしてもらう頂き方、神様の御都合じゃろうと思う頂き方、大変な違いがある、という様な事が話題になった、という様なお話をしとられた。たしかにそうです、ね。困った事が起ってくる、難儀な事が起ってくる。まあ云うならば、どろぼうでも入られた、ね。たしかに気持ち悪いと、まあ、めぐりのお取り払いじゃろと思います、と言うのはですね、こりゃあ神様の御都合じゃろうと言う事に。こりゃあもう、間違いなしにお気付だと。間違いなしに「神様の御都合」だと頂ける所に、お礼が申し上げられます。私は、その「御都合じゃろう」後は御都合とこう頂くのも、なかなか、口では簡単に申しますけれども、実際問題になってまいりますと、なかなかそれをそうと頂けません、ね。やはり、御都合じゃろう位がつぐなってゆく。
そして、ようやく自分の心をなでおろすという程度のものです、ね。無理にそう思うて「まあ、御都合じゃろう、御都合じゃろう。」と。そこん所をですね、体験を頂いてまいりませんと。先程の御理解にも、昨日【 】秋永先生が、広田さんとその後に会われてからの、昨日ですね、その自宅にまで行かれた。ぜひ、きてくれという事であった。
そして、聞かれた事、感じられた事をここへ帰ってきて話ておられました事を、夕べ聞いてもらったんですけれどもですね。
昨日の、その御理解にね、信じる、信心、信心という事、四つ申しましたね。いつも3つしか申しませんのに、最後の信心と教祖の神様がおっしゃっとられる信心とは、本当の信心とは、神と人が神人だと、ね。
そこで私が思うておる事、行のうておる事、果たして、これが、神のきかんに叶う事であろうか。神様が喜びなさる事じゃろうか。第一、親先生が喜んでくださる事であろうか。という風にです。そういう信心からしか信心は生まれてこない。または、厳密な検討をさせて頂いてです、ね。ただこの事【 】ならんけん。【 】ばっかりで、毎日お参りしておると言う様なことではですね、その事だけではですね、全然方向が違う。方向が神様に喜んで頂く様な、信心をさせて頂こう、神様に喜んで頂く様な、信心をさせて頂こうと言うて。
昨日、竹内先生所の奥さんの、お父さんの立日であった。それで、伊万里から昨日、お参りになられた。
昨日私は、御祈念の後に、あの花を頂いておった。それが、私ここで【 】「ああ、こりゃあ妙な花が集まってきたなあ」とこう思うたんです。ここでは松は大変ありがたいものとして、まあ言うなら、めでたいものとして。杉はそれと反対の表現で頂くんです。御理解にね。ところがあれは杉なんです。こんなに<ひとまるがしてある。花屋さんですからね。>あの杉、小さな木がそれにあの菊が七本がそえてありました。で、その、あちらから見えましたから、皆さん御承知でしょうけれども、竹内の奥さんは、お花の先生もなさるんです、ぐらいですから、もう私は初めて気がついたですね。前から、一昨日、二、三日前からしてあったんですけれども、気がつかなかった。「竹内さん、こりゃ、あなただね。
今日の御霊さん、お供えされるのですから、あなたが入れていってください。」と言うて、入れてもらった。
そこで勿論、夜の御祈念にあわしてもらいましたから、ご自分達は【 】、帰られたわけなんですけれども【 】ですかね。一応でも、これが、生き方の【 】がわりにならないはずがない。自分の娘が入れていった、ね。しかもそういうですね。例えば自分のお父さんのお立日だから、そりゃあ、うちからでも良いのだけれど、わざわざお取り次ぎを頂いて、先生に挨拶して頂こうという、そういうたとえば先祖を大事にすると言うか、御霊さんを大事にするといった様な事が、神様のお喜びを頂くという事を、感じましたね。神様【 】ござるというところからみると、いかに神様に喜んで頂く信心。
そこには神様の働きが、信心はわけにゃいけんいう働きがあるんです。おかげがあらわれてくるんです。
ですから、いわゆる、信心、信ずる心がいるというのはそこ。こりゃあ、御霊さんの事だけに焦点を、しぼりましたけどです、ね。神様に喜んで頂く信心とは、神様に喜んで頂く信心とは、というところにいつも焦点がおかれ、いわゆる方向が、その方向むいとかなければならん。
自分のさして頂いとる信心というものは、ただ我情我欲を満たすだけの為の信心が十年、二十年続いたからというて、こりゃあ、神様に喜んで頂く信心じゃない、ね。神様に、ある時には駄々をこねたり、神様に親としての信心が喜べるはずがない。そのくらい【 】いることではありましても、ね。自分自身神様に喜んで頂くような信心であろうかという事をです、いつも心にかけとかなければ、信心が生まれてこない、信ずる心が生まれてこない、ね。そこから、いわゆる、神様も助かってくださらにゃあ、氏子も助からんという、あいよかけよの信心というのが、金光教の本当の神髄とでも申しましょうかね。神と人が拝み合うていく、神と人とが喜び合うていく、神と人とがこう、お互いに働き合うてから生まれてくる、信心がはっきりしてくるわけなんですね。少し話がこんがらかったようですけれどもです、ね。いわゆる、今日はぎりぎり、ひとつ、豊かな心にね、厳密に言うても、今日だけは豊かに過ごさせて頂いたというためにここん所わからなければならないという事をというておりましたですね。
昨日でしたか、福岡の杉山さんが毎朝【 】に参ってきます。ご承知の様に鉄工所をやってみえる。ところが今、その施盤工がいないんです。お願いしてるんですけれども、なかなか施盤工が雇い入れることができない。「施盤工のおかげを頂きたいんですけれども、先生この事どういう風に考えたら良いでしょうか、どういう様な信心させてもらったら、旋盤工が雇い入れる事ができるだろうか、」と言う訳けなんです。
そこで、その事神様に、お願いさせて頂いた。「どうぞ、旋盤工さしむけて下さい。さしむけて下さい。」だけではいけない様です、ね。またお願いしておっても、それがおかげになってあらわれない時には、やはり、お伺いでもするべきだと思います、ね。そしたら私、御神眼に頂きます事はですね、鉄工所の『鉄』という字を頂くんですよね。鉄という字がかいてある。金偏に失うという字が書いてあるね。私の、昨日、甘木で話題になったという「神様の御都合じゃろう、」ではいけない。「神様の御都合」とわからにやあ。今一生懸命の信心ができておる。神様がめぐりの、一生懸命の信心に成るから、めぐりの取り払いにかかって下さるんですよ。本当は、ね。本当のおかが頂きたいと、本気で願うから神様も本気で本当のおかげを下さろうとする方だけ始まるんです。これ、皆さん知らにゃあいかんね。それに、例えば借金があったんでは、どうぞ、金持ちにならして下さい、言うなら、まずある借金の方に支払わして下さる働きが、始まるんですよ、ね。「今、お前ところに良い旋盤工をね、さしむけるのは神様の働きとしては、まあ、言うなら、わけない事かもしれないけれども、今、例えば旋盤工を杉山鉄工所に入れる。仕事がどんどん、順調にできる。順調にできるというだけではいかんのだ。順調にできたばっかりに、やっぱり損をするといった様な事になったら、どうするか。鉄になったら、金を失う事になるかもしれん。必ず、儲かるとは決まっとらん。
だから旋盤工だけが、入ってきたんじゃいかんのだ。
だからこりゃあ、みつおさん旋盤工がね、あちらこちらに手を回して雇い入れたい、雇い入れたいと思いよるけれども、それは、努力をさせて頂く事は、結構ですけれども、旋盤工が入ってこないからというて、どうしてじゃろうか、という事はいらん。こりゃあ、神様の御都合じゃから。しかもそういう、かえって、金を失う事になる様な事になるからね。今かえって入ってこん方がよかよ。
してみると、その事に対して、そういう働きを頂いたのであるから、お礼を申し上げにゃ、いかんけん。」、というて話しました。私は、ただ、その今、お話した様に噛んで含める様には教えませんでした。ただ『鉄』というそのお知らせを頂いた事も知らせませんでした。ただ、「神様の御都合」であるという事を信じてと、私は申しました。
ですから、その事は、みつおさん、お礼を申し上げる事だと申しました。どうも、神様の御都合と思うてみたて、なかなか思いません。そこに、私がみつおさんに、かけておる信心がある訳なんです。実を言うたら。教えるのはわけない事【 】教えよる訳なんですけれども。皆さんに、ね。一日の中に昨日のたかしらさんじゃあないけれども、あれやらこれやら、不足や不平や思うような事が、色々自分の心が貧しゅうなってくると、いよいよそれがめだってくる。豊かな心の時にやぁ、全然問題にもない様な事が、問題になってくる。そういう時にです「神様の御都合」だ、ね。
そこでです「御都合じゃろう」じゃ、いかんのだから。「神様の御都合」と解らせて頂く為に、なら、どういう御都合じゃろうかと解らせて頂こうと、精進するところに、いうなら信心、いわば私の教導のみそがあるんですよ。みつおさんに言った様に。「先生、神様の御都合というたらどげな御都合じゃろか」そこにです。改まらなければわからん、研かなければわからんのでございます。「神様の御都合]という事は、ね。そこに神様【 】ある訳なんです。「御都合じゃろう」じゃいかん。御都合とわからして頂くためにね、言うなら、こういう困った事がです、「神様の御都合」、ね。まあ、言うならばです、神様のおかげを、よりもっとすばらしい、本当のおかげを下さろうとする、御都合に間違いないことだけは、もう事実なんです。具体的にわからして頂きたいというところにですね、信心があるのです。一つ実感的に神様の御都合だと。
そして、神様にその事を、お礼を申し上げる気持ちが生まれてくるのです。ここになってくる時に、初めて本当の豊かさというものが,<生じるのでは>なかろうか。私は思うのですよ。 最近、毎日夫婦で必ずお参りになる。夕方、勤めの帰りに、夫婦で参ってくるんですね。いつも、そのここに私がいない。他の先生方が座っておる時。先生にお目にかかれない。もう一月くらい二月も過ぎたでしょうか。どうも私の考えでは、ただ寄る。ついで参りだ。それでもやっぱり、難儀な問題をかかえておりますから、毎日参ってくるわけなんです。たまたま、昨日、おとといでしたか、私が夕方ここへ座っとりましたら、「あぁ、今日は先生がおられる」というので、私が頂きました教典を開かしてもらいましたら「この方の道はかさ一本でひらける道」という御理解を頂いた。
そこで、その「かさ一本でひらける道」という御理解を、こんこんと説かして頂いた。「あぁ今日はもう、ゆっくりお話頂いたから【 】。」もっと良かったというおかげを頂くために、あしたから、朝参りをしなさっちゃどうですか」というて、朝の五時から何とかってできまいから、ね。言うならば、行きがけに三十分、一時間早う家を出てきて、そして行きがけにお参りをしたらどうですか。そしたら、昨日は二人で参ってみえたですね。素直にそれを聞かれる時に、非常にお取り次ぎがしよいですよね。おかげを受けるなと、確信をもう持てれる、私は。
昨日はちょうど御祈念の済んで一通り終わった頃に、いわゆる、勤めに行きがけに【 】「今までのお取り次ぎはちょうど、銀行に金借りに来るごたるお参りじゃった。
今日からは銀行にお金ば預けに来るような感じですね。」というて、もう話した事でした。皆さん、お参りというのは、そうならにゃいかんのですよ。はぁ-、いつまで参って、おかげ頂きようるじゃろうか、という様な考え方は、信心はですね、こりゃあ、銀行に金借りに行きようる様なもんですよ。
そして、借してもらようるやら、もらわんやらわからん。そういう、不安なお参りじゃいかん、ね。それこそ、銀行に金を預けに行きようる様ないきおい。いそいそとしたお参りが、なされる工夫をしなきゃいけません。それがもう、実に夫婦対称的な…。ご主人は、だいたいが経理関係の方ですから、非常に厳密にそろばんはじいておらなければ、合点がいかんという人。人相から、非常にそういう風な感じですね。奥さんという人は、もうそれこそ、ぱっとこえてですね、豊かな、まあ言うなら、楽天家なんです、ね。楽天的「お父さん、あなた、そげん心配なさらんでも、どげんかなりますが」とちゅうごたるタイプなんです。それもです、ね、神様が、神様が信じ切れて、必ずおかげになるというたような、考えから生まれてくる、その安心の心ならばいいけれどもね。性根が大体楽天的、片方は神経質な、どちらがええの悪いのじゃないです。二人のここに歩み寄れる信心、神様が信じれるという事ですね、どういう神経質な人であっても、それを動きにださんですむおかげが、受けられる。どういう楽天的な人であっても、神様を信ずる力が生まれてくるんです、ね。ひきしまらん訳にゃあいけん。その事も私は、思わして頂いたんですけれどもね。
だから、もう一つ安心のおかげを頂かしてもらえる、ね。おかげ。ただ、その心配症、ね。 所謂、苦労性と楽天的な性分というものだけではいけない。これが、信心によって、ね。「神様の御都合」とはっきり思い込められる信心。「御都合じゃろう」ではまだ磨きがたらん。「御都合じゃろう」では改まりたらんと、ね。
だから御都合と思い込まして頂けれるおかげを頂く為にはね、本気で、私の信心が、神様に喜んで頂く信心であろうか、と言う事を検討して。
同時に、それだけでもいかん。いよいよ、その解らない事「御都合じゃろう」「御都合」と解らないところをです、ね。これは、もうとにかく、こちらに、改まれ、さあ磨け。さあ改まれ、とおっしゃる御都合に違いはない。これだけは、間違いない事ですから、ね。本気で磨くことに、改まる事に精根を入れさせて頂きますと、ですね、そこから神様の、御都合と確信ができる。所謂、体験が生まれてくるんですよ、ね。
昨日、たしか竹内先生の花じゃないですけれども、めったに、頂かない花、それに、また、またお花のお供え頂いた。それが言うならば、神様にゃあ、どうもお供えしかねるような、ね。杉のお花であった。ところが、ちょつと前からお取り次ぎ頂いてお願いしてある、竹内先生とこの御霊様への供えね、あつらえた、こちらが少し信心に向かわして頂きゃあ、神様がこういうおかげを下さるという、いわば信心の心が、いよいよ強ようなってくる。そこからです、「神様の御都合」という事が解る。「神様の御都合」と、どのような場合でも、神様の御都合と確信できるところに、生まれてくるのが、いよいよ豊かな心なのであります。そういう豊かな心でなければ、本当はいかんのです、ね。神様を信じきって、豊かな心、今日、私はぎりぎり、その豊かな心に取り組んでみたいと思うとります。皆さんも、どうぞ。